みなさんへNo61 −フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一−

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日本で初めて、動く映像が一般公開されたのはいつどこでだと思いますか?
1896年11月25日、神戸花隈にあった神戸神港倶楽部での公開が初めてだそうです。
アメリカの発明家、トーマス・エジソンが発明したキネトスコープという装置を用い、覗き窓から覗き込んで、一人ずつ順番に動く映像を観るという方法での公開でした。
では、スクリーンに映像を投影し、一般の人たちがお金を払い、動く映像を初めて観たのは(映画の興行を日本で初めて行ったのは)いつで、場所はどこだったのか?
それは、神戸のキネトスコープ興行から3カ月後の1897年2月15日、フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフという機械を用いて、大阪の難波にあった南地演舞場で行われました。
そして、さらに遅れることわずか7日、2月22日に、南地演舞場から1キロほどしか離れていない、大阪の新町演舞場で、アメリカのエジソンが特許を持っていたヴァイタスコープという機械でも、今の映画の上映と同じ形で動く映像の一般公開が行われていたんです。
動く映像を、たくさんに人たちがお金を払って観るという興業が、3ヶ月そこらという短い期間に神戸と大阪で行われていたという事実、皆さんはご存知でしたか?
覗き穴で動画を観るキネトスコープは、映画の上映という観点で言うと少し違うので、このお話はここでおしまいにしますが、12月1日の「映画の日」は、一番早かった神戸でのキネトスコープを用いて行われた興行を記念して制定されました。

さて、お互いのことを全く知らない2人の関西人が、フランスとアメリカから映写機を日本に持ち帰り、映画の興行を行ったのが、上記の通り1897年2月であるという事実。それもたった1週間というタイムラグで。この歴史上の事実は偶然ではなく、必然のように思えてなりません。
フランスからシネマトグラフを日本に持ち込んだ男の名を稲畑勝太郎(1862.12.21~1949.3.29)、アメリカからヴァイタスコープを日本に持ち込んだ男の名を荒木和一(わいち)(1872.2.3~1957.9.20)と言います。1897年2月当時、稲畑34歳、荒木25歳。
初めて日本で映画の興行をした南地演舞場跡地(現在のTOHOシネマズなんば)には、稲畑勝太郎の功績をたたえる碑文があります。
そしてその事実を基に、一般公開する前の試写としての投影、いわゆる日本で初めてスクリーンに動画を投影したのも稲畑勝太郎で、1897年1月下旬、稲畑が住んでいた京都にあった京都電灯会社の庭、とされており、その跡地にも、そのことを記念する碑が立っているんです。ここまでは、インターネットで簡単に調べられます。

この歴史上の事実と2人の人物像に注目したのが、僕を「飲み仲間」と呼び、良くしてくださっている、エッセイストの武部好伸さん。
その武部好伸さんが、上記の史実を覆す新発見を、2016年に上梓された本『大阪「映画」事始め』で発表されました。

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稲畑と荒木、2人が映写機を日本に持ち込んだのは、荒木の方が早かったこと等に着目された武部さんは、徹底的に当時のことを調べ上げ、荒木が大阪の難波にあった福岡鉄工所で行った試写が、稲畑が行った京都での試写より約1ヶ月早い1896年12月から翌1月の初旬だったことを発見されたんで
す。
もとい、このことについて武部さんは、『大阪「映画」事始め』の「あとがき」でこうおっしゃっています。
「発見したのではありません。見過ごされていた事実に気づいたというほうが正しいでしょう。それは筆者の僕が大阪人だからこそ、心の綱に引っかかったのだと思います」と。
武部さんは、この「みなさんへ」でも以前に紹介した「ウイスキーアンドシネマ」など映画に関する本もたくさん出されており、地元愛、映画愛がこの事実にたどり着いた源だともおっしゃっています。
そしてこの度、この事実をベースにした小説「フェイドアウト」を上梓されました。頂戴したその本を一気に読み終え、その感動の余韻に浸りながら、この文章を書いています。
「フェィドアウト」は、荒木和一目線で書かれた小説で、僕は、荒木の行動力やリーダーシップなどの人間性にとても惹かれました。
荒木は単身アメリカに出向き、得意の英語を駆使して、エジソンにアポなしで会いに行き、ヴァイタスコープの購入を現実のものにするのですが、その時の荒木の達成感は、自分の事のように共感できましたし、彼の下で働く丁稚さん(部下)たちに対するやさしさとリーダーシップには、とても勇気をもらいました。
荒木も稲畑も、もちろん本業は別にありました。荒木は、舶来品輸入業の荒木商店の店主、稲畑は、自ら立ち上げた稲畑染料店(現在の東証一部上場稲畑産業㈱)の創始者で、二人が行った映画の興行はそれほど長い期間ではなく、自分たちは映画興行のプロではないという理由により、1年足らずで映画興行の世界から撤退しています。
そして、撤退後の2人の関係性についても、人とのつながりがいかに大切かということを教えてくれます。短い間だったとはいえ、同じ映画興行主というライバル関係であった2人は、映画興行から撤退した後、お互いを尊重し、尊敬する間柄になっていきます。この部分は武部さんの願望だということですが、特に荒木は年上の稲畑を大変尊敬していたのは間違いないと。後に稲畑勝太郎は、大阪商工会議所第10代会頭になる人物なのですから。

小説「フェイドアウト」は、駆け抜けた荒木和一の波乱万丈な人生の集大成をまとめた評伝風小説です。読み終えて、荒木和一と共に、彼の人生を辿ることができてよかったという強い幸福感、爽快感を覚えました。本当に心が温かく、清々しくなりました。
ぜひ手に取って読んで頂きたい本です。皆さんの仕事のヒントになることがたくさんちりばめられているはずですから。

 

フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一
東龍造 著 幻戯書房

大阪「映画」事始め
武部好伸 著 彩流社

東龍造(ひがしりゅうぞう)
1954年、大阪市生まれ。大阪大学文学部美学科卒業。元読売
新聞大阪本社記者。日本ペンクラブ会員。関西大学社会学部非常勤講師。本作が初めてのフィクションで、このペンネームを使うのは初めて。本名(武部好伸)でエッセイストとして映画、ケルト文化、洋酒、大阪をテーマに執筆活動に励んでいる。著書に「ケルト」紀行シリーズ全十巻(彩流社、1999~2008)『全部大阪の映画やねん』(平凡社、2000)、『スコットランドケルト」の誘惑 幻の民ピクト人を追って』(言視舎、2013)、『ウイスキーアンドシネマ 琥珀色の名脇役たち』(淡交社、2014)、『大阪「映画」事始め』(彩流社、2016)、『ヨーロッパ古代「ケルト」の残照』(同、2020)などがある。