みなさんへNo66−大谷翔平選手のしたかった野球−

3月23日の日本時間11時45分ごろ、MLBを代表するスラッガーで、エンジェルスの兄貴分のマイク・トラウトを三振に仕留めた大谷翔平は、雄たけびを上げながら自分のベンチの方に3、4歩進み、グローブと帽子を投げ捨て、走ってきたチームメイトに飛びついた。
160キロ越えの直球2球と、ホームベースの横幅と同じ43センチも曲がったスライダー、その3球すべてで空振りを奪っての三振。全6球、1球もバットに当てさせなかった。
WBC決勝のアメリカ戦に3対2で勝利。7連勝で勝ち取った完全優勝だった。

僕は、今回のWBCに大谷翔平選手は出場しなくてもいいと思っていました。
怪我でもして、本業のメジャーリーグの試合を長期離脱するようなことがあってはならないと思ったからです。
でも彼は、早々に出場することを表明し、記者会見を行いました。ジャパンのユニフォームに袖を通して、栗山監督と一緒に。
「優勝だけを目指す」
大谷選手はそう言って、本当に成し遂げました。

WBCが始まる少し前に本屋さんに並んだ雑誌「Number」に大谷選手の長いインタビューが掲載されていて、彼はこんなことを言っています。
「今のささやかな幸せか…なんでしょうね。ささやかな幸せを感じるまでもなく、今は日々に満足していますね。今日もしっかり練習できたし、これから帰ってごはんも食べられるし、夜になったら寝心地のいいベッドがあってそこで寝られるし、明日が来ればまた練習できるし…そういう、何の不安もなく暮らせる感じというものに満足しているんですね。それがささやかではない幸せなんだと思います」
まるで、野球が大好きな中学生や高校生のセリフだと思いませんか?
あの大谷翔平のセリフですよ。今期の総収入85億円の男ですよ。
大好きな野球ができて、おいしいごはんが食べられて、ゆっくり寝られて、次の日にはまた大好きな野球ができる…こんな生活ができている今がめっちゃ幸せだ。そう言ってるんです。まさに野球小僧ですよね。
自分の思い描く理想のプレーができるようになるためなら、彼はきっと、どんなつらい練習や節制も楽しめるんです。
野球のことだけを24時間、365日考えていられるんです。
野球(すなわち仕事)漬けの日々がささやかではない幸せだと言える…素敵なことですよね。

今回のWBC日本代表の全7試合で僕が観たもの、それは、身体全体でチームを鼓舞し、キラキラした眼差しで、全力で勝つためにプレーしている大谷選手、いや大谷少年でした。
2021年のポストシーズン進出が途絶えた後、大谷選手は、「ファンも、エンジェルスも好きだけど、それ以上に勝ちたいという気持ちが強い」そう言いました。
彼は、きっとこんな野球がしたかったんです。大好きなチームメイトと一緒に、相手に勝つために一つになれる野球。それができているから、大谷選手の「勝ちたい気持ち」が爆発したんですよ。あんなに少年のように楽しく野球やってる大谷選手、見たことないですもん。

準々決勝のイタリア戦の3回の攻撃、一死一塁で鮮やかに決めたセーフティーバト。
その時のことを、大谷選手はこう言っています。
「あの場面に関しては、ヒッティングするプライドはなかった。日本代表チームの勝利より優先する自分のプライドはなかった。」
この言葉で僕は大谷選手の勝ちたい気持ちを自分なりに理解しました。
極端な大谷シフトで狭くなっている一、二塁間を鮮やかに抜いてやろうだの、いっそのこと、高々と打ち上げてスタンドまでもっていってやろうだのといった個人的なプライドは一切なく、最悪のシナリオであるダブルプレーを回避し、自分も確実に一塁で生きる方法は何かと冷静に判断できたうえでの奇策だったんです。そこまでして勝ちたかったんです。
ちなみにその日、彼は先発ピッチャーでした。正に打って走って投げました。その結果がチームの勝利に繋った。それがうれしくてうれしくて仕方がないんですよ。自分が積み上げてきた実績や記録など、どうでもいいんです。
よかったねぇ、やっとやりたかった野球ができてるねぇ…そう思うと、今でも涙が出そうになります。そして今まで、特にこの2年間、怪我を乗り越え、ようやく健康で1年間プレーできるようになり、個人として、とてつもない成績を残したにもかかわらず、チームをポストシーズンに導けなかったことが、本当につらかったんだろうなぁと、改めて思いました。

話は変わりますが、WBCの決勝アメリカ戦、最後のバッターであるトラウトを空振りの三振に切って取った直後の大谷選手の歓喜の顔が、僕には、山王工業戦で流川からのラストパスを受けて、自らのブザービーターで勝利した時の桜木花道歓喜の顔と重なりました。

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ちなみに大谷選手も、「SLUM DUNK」の大ファンだそうです。
3月27日のドジャースとのオープン戦の登場曲に大谷選手が選んだのは映画「THE FIRST SLUM DUNK」のオープニングテーマであるThe Birthdayの「LOVE ROCKETS」でした。この映画、僕は2回観てボロ泣きしました。(笑)

LAエンジェルスは、4月13日時点で7勝5敗。大谷選手は、打者として打率3割、ホームラン3本。打点8。OPS.979、投手として3試合に登板2勝0敗、投球回数19,防御率0.47、奪三振数24、奪三振率11.37です。防御率0.47!!ホームランも年間40本越えペース。絶好調です。
今年も健康で1年間戦い抜いてくれることを心から祈っています。それが達成された時、どんな景色を我々ファンに見せてくれているのか…本当に楽しみです。「勝ちたい気持ち」が達成され、WBC同様、漫画でも書けないドラマチックなシーズンになりますように。

コミック「スラムダンク」全31巻:井上雄彦
集英社

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みなさんへNo65−新型コロナ感染とトラキチの話−

12月に入った最初の日、僕は新型コロナの陽性者になった。
抗原検査キッドで調べたら、2本の線が浮き出てしまった。
いろんな人に迷惑をかけてしまうなぁ…と思ったけど、まぁ仕方ないと気持ちを切替えた。
神戸市の新型コロナ感染者のサイトに登録するとすぐに担当の方とお医者様から電話がかかってきて僕は軽症者という扱いとなり、11月30日を0日として7日間の自宅療養を経て、熱などの症状が収まれば、8日目から日常生活に戻れるといことだ。
かくして僕は、自分の部屋での隔離生活を送ることになった。
症状は本当に軽く、味覚障害なども出ず、過去に経験したことがある喉風邪、鼻風邪という程度だった。新型コロナではなければ、会社で仕事をしていたかもしれない、その程度の症状で、5日目には、空咳は出るものの、9割がたいつもの状態に戻った。
こんな感じで7日間、僕はほぼ自分の部屋で過ごし、予定通り12月8日から出社ということになった。
「ほぼ」がついているのは、庭には定期的に出ていたからだ。
僕の部屋は1階にあって、裏に小さな庭がある。その庭に1匹の野良猫が定期的にやってくる。実は2年くらい前からちょくちょくやって来ていた猫で、気が付けば、うちの庭で丸くなって寝ているのをよく見かけるようになっていた。当時は、もっとたくさんの猫が来ていたけど、今はこの子だけ。

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僕は、隔離生活の間、この子と多くの時間を一緒に過ごして、たくさん助けてもらった。

キジトラ柄の雄猫なので、トラキチと名付けたその子は、多分今3歳くらいだと思う。人に換算すると25歳くらいだ。
右耳がV字にカットされている「さくらねこ」で、さくらねこという存在を知ったのもトラキチに出会ったからだ。(NO.47に書いています)
僕は、トラキチ不妊手術をしたさくらねこだということを前提に、うちの庭で魚の骨などを時々与えていたけれど、隔離期間の初日に固形のキャットフードを買ってきてもらい、庭に繋がるコンクリートステップのすぐ横で、丸くなっていたトラキチのために、キャットフードをトレイに入れて窓辺に置き、そっと窓を開け、窓から離れた。
一瞬逃げる格好をしたトラキチだが、なんか様子が違うぞ、とそっと部屋の中を覗き込んで、食べ物の存在を知ると、彼は、前足を窓の冊子に乗せてパクパク食べてくれて、僕はちょっとホッとした。
実はトラキチ、今年の夏にこっそり家に入ってきたことがあった。
僕が家に帰った夜10時ごろ、部屋の窓を開けて、洗面所で服を脱いでいる間に部屋に入ってきて、すったもんだして窓から一目散に逃げだしたとう経緯があったから、怖がって部屋には近づいてくれないのではないかと心配していたんだけど、大丈夫だった。
次の日の朝も、トラキチはコンクリステップの上にちょこんと座り、部屋の中を覗き込んでいた。
トラキチは、暖かい場所をよく知っている。
コンクリートステップの横には、僕が抜いた雑草や剪定した木の枝などが重ねて置いてあり、ふわふわの絨毯のようになっているし、太陽が照り付けているときには、庭の向こうにある隣のマンションの物置の天井の上で日光浴をしていたりする。
そして、定期的に僕の部屋の掃き出し窓の前にちょこんと座り、部屋の中をじっと見つめたり、コンクリートステップの横で丸くなっていたりすることも多くなってきた。
隔離生活の3日目だったか、庭で丸くなっていたトラキチが、急に「うぅーーん」と鳴き出した。警戒しているときの鳴き声だ。
僕は窓にそっと近づいて、静かに窓を開けた。トラキチは、僕には目もくれず、「うぅーーん」「うわぁーん」と相手を凝視して鳴いている。
どんな子が来ているのかな?窓からぞっと顔を出しトラキチが向いている方を見ると、顔が白とグレーで、背中がサバトラ柄のトラキチよりもちょっと大きい丸々と太った子がじっとトラキチを見つめており、僕に気づくと逃げ出してしまった。身体のサイズから、うちのトラキチは、喧嘩になれば負けてしまいそうだ。いや、絶対に負ける。
その日から、背中がサバトラのサバキチは、ほぼ毎日うちの庭に来るようになった。
そのたびに、トラキチはコンクリートステップの上に置いてあるアジサイの鉢と家に間に隠れて「うぅーーん」「うわぁーーん」と鳴いている。たぶん、「くるなや!」「どっかいけや!」と言っているんだろう。

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仕事をしている間はまだ気がまぎれたけど、仕事を終えて寝るまでの間と、仕事を始めるまでの間、僕は自分の部屋か庭で、一定の距離を置いてトラキチと一緒にいた。僕が、朝起きて窓を開けると、トラキチは、家の角を曲がってすぐにやって来るようになった。
新型コロナに感染しても、朝はいつも通り5時半に起きていたので、僕はまだ暗い誰もいない6時前の2階の居間に行って、ベランダから右隣の家との隙間を懐中電灯で照らしてみたら、そこでトラキチは寝ていた。気温は3度くらいだ。
僕は、彼に気持ちが入ってしまっているので、すごく健気に思えて、切なくなった。
そんな矢先、25日のクリスマス、いつもなら餌を食べ終えたトラキチが、部屋を出て行こうとしない。その時、部屋でアイロンがけをしていた僕は、ふわふわのピロークッションをトラキチの足元にそっと置いた。トラキチよ、そこに座れ、暖かいぞ!

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彼は、10分くらいクッションの前にちょこんと座っていた。だんだん僕の足が冷たくなってきたとき、トラキチは、クッションの上には座らず、コンクリステップの隣の枯草の絨毯の上で丸くなった。
負けた・・・(笑)
暮れの押し迫った今、トラキチを、うちの子にしたい気持ちと、でも、いつかはいなくなってしまうから、という切ない気持ちの中で、僕は揺れ動いている。

今回は、本の紹介はありません。
今年も1年間ありがとうございました。素敵な年をお迎えください。

みなさんへNo64 −ほんものは美しい−

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ここのところ、仕事終わりで会社を出て、家に着くのが夜9時を回ることが多く、それから家のことをしたり、お風呂に入ったりして、やっと晩ごはんにありつける。居間はYouTubeだのゲームだの騒々しいので、自分の部屋でおかずを肴に、静かに一杯やらせてもらっている。そんな感じだから、その時間は、夜の10時以降になることが多い。
朝は毎日5時半に起きることに決めているから、早く寝なきゃなのだけど、やっぱり1時間くらいは自分のホッとタイムが欲しいから、寝るのも日付が変わってからになってしまうことが多い。そんな時間に寄り添ってくれるのが、僕にとっては絵画です。写しではない作家さんが描いた本物の絵画。

4年前、初めて作家さんの個展をギャラリーに見に行き、初めて小さな絵画を買った。
その絵画が家にあることで、僕は、言葉では言い表せないくらいの幸福感や安心感を得ていることに気付いた。家に帰れば、その絵画に会える。だからもうちょっと頑張ろう、もうちょっと笑顔でいよう…そんなふうに自らを奮い立たせる自分がいた。
初めて絵画を買ったのは、2018年の4月のこと。当時、義父が末期がんを患っていて、いつ病院から電話がかかってきてもおかしくない状況だった。少しでも長く生きていてほしいという思いと、痛みを伴う苦しい闘病から解放させてあげたいという思いが重なって、僕ら家族は、みんなつらい思いをしていた。そんな時に、僕は初めて作家さんから絵画を買い、
自分の家に飾った。そんな状況だったから余計にそう実感したのだと思うのだけど、僕は確実に、その絵画に助けてもらった。その絵画のタイトルは「白い花に祈る」。
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義父は、僕が絵画を買ってから1か月後に安らかに天国へと旅立った。

その絵画を買ったギャラリーは、毎月定期的に若手の作家さんを中心に、絵画や写真の展示を行っていて、僕は初めて訪れて以降、ほぼ全ての展示を拝見し、グッとくる作品があれば、僕の買える範囲で家にお迎えしてきた。最初の1枚をわが家にお迎えして味わった幸福感とか、安心感がとても大きくて、僕は、心と身体のリフレッシュやリセットを、作家さ
んの描く絵画に求めるようになった。それは、僕にとってとても自然な流れだった。
僕が拝見するのは、これから有名になろうという作家さんの展示が多いので、僕でもなんとか手にできる価格の絵画もあり、我が家にこの4年間で20点ほどの絵画をお迎えした。
大きなお金は払えないから、絵画自体も小ぶりなものが多く、部屋や廊下や階段の壁にかけたり、床やテーブルの上に置いたりして楽しんでいる。そして、定期的に飾る場所を変えたり、フレームを変えたりして、絵画自体や空間の雰囲気の変化も楽しんでいる。
お気に入りの絵画は、皆本当に美しくて、愛おしい。そんな美しくて愛おしいものを、自分の部屋や廊下、2階へ行く階段に座って眺めていると、心と身体がトロトロにほぐれていき、また明日も何とか乗り切ろう、と思えるのだ。

絵画といっしょに、日々の短い一人の時間に欠かせないものが本や雑誌。お酒を飲みながら本や雑誌をパラパラめくっている時間は、とてもリラックスできる。手元の本や雑誌に目をやった後、前を向くと目線の先にはお気に入りの絵画がある…なんと贅沢な!(笑)
僕は、本を読むことと同じくらい本自体も好きなので、本屋さんや図書館など、沢山の本がある空間にいるだけで、幸せな気持ちになる。
10月30日の日曜日、その「本」というモノがどのように作られているのかを聞く機会があった。
淀屋橋odonaの1階に、竹尾という紙の商社が運営している淀屋橋見本帳というお店があり、そこで10月30日まで「矢萩多門と本づくり」という企画展が行われていた。
矢萩多門さんは、ブックデザインのお仕事をされている、いわゆる「装丁家」さん。本の表紙など、本の外観をデザインすることを生業とされている方で、今までに600冊以上の本の装丁をされてきた方だ。多聞さんがパーソナリティーを務めるインターネットラジオ、「本とこラジオ」で僕は多聞さんのことを知り、リスナーになった。
企画展の最終日に在楼されているとSNSで知り、僕は、多聞さんに会いたい!いろんな話をお聞きしたい!という衝動を抑えられず、勇気を振り絞って会いに行った。めっちゃ緊張したけどその甲斐あっていろんな話を伺うことができた。
普段、何気に手にしている本は、そのデザインや文字のフォント、表紙や見開きなどに使われている紙にいたるまで、今まさに本という形になろうとしている、作家さんの書かれた文章に対する装丁家のイメージ基に、感性や専門的な知識に裏付けされた仕事により出来上がっていると知り、僕は、今まで何も考えていなかった自分が少し恥ずかしくなった。
表紙のデザイン1つ決めるのにどれだけの苦労があるか、考えたことありますか?
表紙のデザインを決めるのに、たくさんの試作が作られる。
ボツになった表紙のデザインも展示してあり、装丁家の細やかな拘りがよく分かった。そのボツになった沢山の試作も、ベースのデザインはよく似ていて、文字の大きさや、縦書きなのか横書きなのか?文字をどこに置くかなどが違うだけ。
ならば、ここに至るまでの、全く違うデザインの表紙の存在もリアルにイメージできて、改めて装丁家の仕事の凄さ、大変さを思い知らされた。

そして、11月5日の土曜日、僕は、大好きな作家さんの個展を拝見した。彼女は人気上昇中のイラストレータさんで、僕は1枚彼女の描いたイラストを持っていて、部屋のテーブルの前に飾っている。そのイラストを、展示の真似をして、イラストとフレームの間の空間を透明に変えたら、とても素敵になった。f:id:fujimako0629:20221113182917j:image

元々美しいイラストを、さらに美しく見せるための工夫…それは美しい文章を美しい本という形にすることに似ていると思う。
多聞さんと、お嬢さんのつたさん共作の「美しいってなんだろう」という本を今読んでいる。美しいってなんだろうと思うことが、僕の内側を少し、美しくしてくれている気がする。

美しいってなんだろう?
矢萩多聞 つた:著 世界思想社

みなさんへNo63 −おじいさんとおばあさんの紫陽花−

梅雨が明けましたね。まだ7月になったばかりだというのに。
この季節、街を歩いていると、いろんなお家の玄関先で見かける花があります。そう、紫陽花の花。
うちの家の小さな裏庭にも紫陽花があって、薄紫の花を3輪つけてくれています。
うちの紫陽花は、あるお家の紫陽花を、お家の方の許可を得ることができないまま、切って持って帰ったもので、どうしても自分で育てたかった紫陽花なんです。
僕は、持って帰った紫陽花を一輪挿しに生け、根が出るのを待って、庭に植えました。
紫陽花はとても強い植物で、挿木をすることで比較的簡単に増やすことができます。根付くまでの面倒はきちんと見てあげる必要がありますが、根付いてしまえばそれほど手がかからない植物で、翌年にはきれいな花を咲かせてくれます。
僕が、なぜそんなことをしたのか?その経緯(いきさつ)について、僕と庭の紫陽花のお話に、ちょっとお付き合いください。f:id:fujimako0629:20220703171356j:image

出勤のために朝、家から歩いて最寄りの駅に行く途中に、ご高齢のご夫妻が二人で住んでおられるお家がありました。
そのお家が気になり始めたのは7年くらい前でしょうか。僕には、とても仲むつまじいご夫婦に見えました。お二人とも80歳前後だったと思います。
歩いてお家の前を通るときとき、よくお二人の姿を見かけました。見かけるときは、必ずお二人の姿を垣根越しに見る事ができました。
ご主人であるおじいさんが、庭のお手入れをされているときには、奥さんであるおばあさんは、お庭に面したお部屋の窓を開け、そこに腰かけておじいさんを優しく見守っておられるんです。
お子さんは皆独立され、二人でつつましく丁寧に生活されているご夫婦…僕は、お二人を見て、そんなほほえましい想像をしました。将来は、僕もあんな風に年を取りたいなぁっと思いながら、お家の前を通っていたものです。
そのお家のお庭の片隅には、紫陽花が植えてありました。
その紫陽花は、毎年梅雨の季節になると、きれいな花をたくさんつけました。
今は、少し勉強したからわかるのですが、紫陽花の花を毎年たくさん咲かせるのは、剪定の時期や方法などをきちんと知っていなければできないことなので、おじいさんは、ちゃんと紫陽花のお手入れの仕方が分かっていて、毎年、見ず知らずの僕の目まで楽しませてくれていたんですね。ありがたいことです。

そんな、仲睦まじいご夫婦ですが、5年くらい前から、おじいさんの姿を見かけなくなりました。
お庭でお見掛けするのは、おばあさんの姿だけ。僕は、お家の前を通るたびにおじいさんを探しましたが、おじいさんの姿はどこにもありませんでした。
施設か病院に入られたのか?それとも…僕は、悲しい想像をしました。
おじいさんの姿を見かけなくなってから1年ほど経って、おばあさんの姿も見かけなくなったことに気付きました。僕は、おじいさんを見かけなくなった時と同じ悲しい想像をしながら、お家の前を平日の朝晩通り続けましたが、気が付いて以降、朝、おばあさんの姿を見かけることも、夜、お家に明かりがついていることも一度もありませんでした。
そんな日々を過ごして迎えた月曜日の朝、僕はお家の変化に気づきました。お家の雨戸が閉まっていたのです。
それからしばらくすると、お家のガレージに、頻繁に他府県ナンバーの車が止まるようになりました。平日の朝晩しか知らない僕にとって、今までほとんどなかったことです。
きっと、おじいさんとおばあさんの遠くの街に住むお子さんたちが、この家の整理に来られているんだなぁ、このお家から、おじいさんとおばあさんの思い出がなくなってしまうんだなぁと、僕は少しさびしくなりました。
綺麗だったお庭も、主がいなくなると少しずつ荒れていきました。美しく生き生きとしていた紫陽花も、終わった花が茶色く垂れ下がり、みすぼらしく見えるようになりました。
そして数か月後、また紫陽花の季節になった時、突然お家が壊されました。夜、お家の前を通った時、お家の敷地に重機が入り、お家の半分がなくなっていたんです。
僕は、暗い道に立ちすくんで、その変わり果てたお家の姿を呆然と見つめました。
次の日の夜には、お家はなくなり、瓦礫になりました。庭もぐちゃぐちゃになりました。植えてあった木も根こそぎ切り刻まれていました。垣根もなくなり、2日前までそこにあったこじんまりした丁寧な生活の歴史が刻まれたお家の面影は全くなくなりました…いいえ、そのお家があった土地の片隅に、小さな面影が一つだけ残っていました。
紫陽花です。紫陽花はまだ抜かれずに残っていました。作業者の方に踏まれたり、作業中にいろんなものがぶつかり、枝が折れたり、とても傷ついていましたが、いくつか咲いていた花はまだ空に向かっていました。
僕は、持っていたハサミで、花がついている茎を切って、急いで家に帰り、一輪挿しに生けました。
次の日の夜には紫陽花も抜かれ、数日後には、おじいさんとおばあさんのお家があった土地はきれいにならされ、ただの平らな土地になりました。

これが僕と庭の紫陽花のお話です。いえ、おじいさんとおばあさんの紫陽花のお話です。

3年前植えたおじいさんとおばあさんの紫陽花は、おじいさんとおばあさんのお家にあった時のような美しい枝ぶりの紫陽花ではありません。でもうちの小さな庭で命が続いていることに、僕はとても安堵していますし、あの日汗だくで持って帰ってよかったなぁと思っています。持って帰った時についていた花は、いい感じのドライフラワーにすることに成功
し、今でも僕の部屋にあります。そして…おじいさんとおばあさんのお家があった場所は今、駐車場になっていて、その違和感が少しずつ小さくなっていく僕がいます。

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みなさんへ No.62 ーあいうえおのきー

f:id:fujimako0629:20220304225435j:image1ケ月半ほど前、お気に入りのYouTubeチャンネル「朝のコ ーヒー今日の本 」を観ていたら、レオ・レオニの絵本「フレ デリック」が紹介されていた。

僕はこの絵本を持っているんだけど、長らく見ていない。あ れ?どこにやったっけ? 子供の頃に買ってもらってから大切にしていた絵本で、実家 を離れて一人暮らしを始めてからも、結婚して新しい家族と 暮らすようになってからも、ずっと手元に置いていた。2人 の子供が、それぞれまだ小さかった頃、僕が親にしてもらっ たように、子供たちに読んであげて以降、かれこれ15年く らい僕は、「フレデリック」を目にしていない。

この動画がきっかけで「フレデリック」のことが気になりだ した僕は、いても立ってもいられなくなり、ありそうな場所 を探してみることにした。ターゲットは子供部屋だ。

2人とも、もう二十歳を超えた立派??な大人男子なので、 部屋に入ると、見てはいけないものも見てしまうかもしれな い。 部屋に入られた形跡を残すと、めちゃくちゃおこるかもしれ ない。そんなことを思いながら、1月も終わりのある日、こ っそり、まずは3階の下の子の部屋に忍び込んで、クローゼ ットを開けた。

そこには、お宝がたくさん眠っていた。 大量のウルトラマンと怪獣の人形、プラレール…そんなおも ちゃ箱が積んであるクローゼットの奥に、「フレデリック」 はあった。 f:id:fujimako0629:20220304225650j:image

おー!いきなり見つけたぁ。まず、「スイミー」を見つけて、 その下に「フレデリック」そして、さらにその下に「さかな はさかな」もあった。あーなんか、思い出してきたぞ。

その3冊を持って僕は自分の部屋に戻り、久しぶりに本を開 いた。f:id:fujimako0629:20220304225841j:imagef:id:fujimako0629:20220304230004j:image たくさんの懐かしさと少しの切なさで胸がいっぱいになりな がら、僕は絵本3冊を読んだ。

フレデリック」には、「ちょっとかわった のねずみのはなし」 というサブタイトルがある。 冬に備えて、せっせと食べ物を集めている仲間の野ネズミた ちを尻目に、全く働こうとしない変わり者、いや変わりのね ずみのフレデリックが、蓄えた食べ物がなくなりそうになっ た冬の真っ只中に、仲間の野ねずみたちを、彼が紡ぐ物語で 助ける、というお話だ。

一緒に見つけた「スイミー」のサブタイトルは、「ちいさな かしこい さかなのはなし」。「さかなはさかな」は、「かえる のまねした さかなのはなし」。

このサブタイトルがいい味出 しているなぁと思ったら、3冊とも、日本語訳は偉大な詩人、 谷川俊太郎さんだ。さすが!

 

その3冊の絵本は、1960年台から1970年代にかけて、とも に好学社という出版社から出版されており、当時10冊くら いのレオ・レオニの絵本が、好学社から出版されていたよう だ。

手元にある3冊の絵本のカバーの背表紙の折り返しに、 それらの絵本が紹介されている。

今でも販売されているのか な?

久しぶりにレオ・レオニの絵本を読んで、僕はまだ持ってい ない、当時、好学社から発売されていた、残りのレオ・レオ ニの絵本を探してみたくなった。

 

僕は、古書店を巡るのが大好きだ。 目的がなくぶらぶら古書店を巡るのももちろん楽しいけど、 探したい本があるという目的をもって巡ることはさらに楽し い。 2月の終わりの少し春を感じられた休日に、僕は、元町周辺 の古書店を巡った。その日はそれまでの寝不足がたたり、絶 好調ではなかったから、地元の図書館で雑誌や新聞をめくり ながら1時間半ほど過ごした後、昼過ぎから4つの古書店を 巡って、夕方には家に帰ってきて、あっという間に寝てしま った。

僕の部屋のスツールの上には、今日、新しくお迎えしたレオ ・レオニの絵本があった。

当時、好学社から発売されていた 初版の絵本で、タイトルは「あいうえおの き」、サブタイト ルは「ちからをあわせた もじたちのはなし」。僕はその絵本 をたったの400円で買った。

 

神戸の町周辺には、本当にたくさんの新刊書店や古書店が点 在している。そして、お昼から軽く飲めるお店もたくさんあ る。だから、僕のように一人で本屋を巡り、手に入れた本を 肴に軽く一杯・・・(もう長く一杯はやっていないけど)そんな 本好きにはたまらない場所だ。

その日巡った4つのお店は、少しお疲れ気味の僕の歩く導線 上にあった店で、JR神戸駅かJR元町駅までにある、サンコ ウ書店、神戸元町みなと古書店、本の栞、花森書林。「あい うえおの き」は最後に訪れた花森書林で見つけた。

 

2月最後の日の夜遅く、軽い食事をとりながら僕は、「あいう えおの き」を読んだ。読み終えたときには鳥肌が立ち、神 様に読ませてもらったと、心からそう思った。翌日のために 少しでも早く寝たかったのに、興奮してなかなか寝付けなか った。 あいうえおの きには「もじ」たちが住んでいて、楽しくの んびり暮らしていたのだが、ある日嵐がやって来て、「もじ」 たちの一部が吹き飛ばされてしまった。残された「もじ」た ちは、虫たちの力も借りながら、一致団結して、嵐に飛ばさ れないよう「ことば」になる努力をし、さらに世の中で一番 大事なことが書かれた「ぶん」になる努力をする。 そして「もじ」たちの努力が実り、ひとつの「ぶん」ができ た。その「ぶん」とは、

「ちきゅうにへいわを すべてのひとびとにやさしさを  せんそうはもうまっぴら」

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ね、今読むべき本でしょう?

人それぞれに、人それぞれ分の守らなければならないものが あって・・・

僕は今、限られた情報しか受け取っていないのかもしれない と思ったりもしていて。

だから分かったような事を言うのは正しくないのかもしれな いけど・・・

だけど、武力を使って、自分たちの都合のいいように周りを ゆがめてしまうことは、絶対にあってはならない。唯一の被 爆国で生まれた人間の一人として、ここだけは曲げたくない。

 

僕は、「あいうえおの き」に今、このタイミングで出会えた ことにすごく感謝した。そして「フレデリック」を思い出し たのは、この絵本に出会うためかもしれないとも思った。

 

あいうえおの き(The Alphabet Tree) 

レオ・レオニ:著 谷川俊太郎:訳 好学社

 

みなさんへNo61 −フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一−

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日本で初めて、動く映像が一般公開されたのはいつどこでだと思いますか?
1896年11月25日、神戸花隈にあった神戸神港倶楽部での公開が初めてだそうです。
アメリカの発明家、トーマス・エジソンが発明したキネトスコープという装置を用い、覗き窓から覗き込んで、一人ずつ順番に動く映像を観るという方法での公開でした。
では、スクリーンに映像を投影し、一般の人たちがお金を払い、動く映像を初めて観たのは(映画の興行を日本で初めて行ったのは)いつで、場所はどこだったのか?
それは、神戸のキネトスコープ興行から3カ月後の1897年2月15日、フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフという機械を用いて、大阪の難波にあった南地演舞場で行われました。
そして、さらに遅れることわずか7日、2月22日に、南地演舞場から1キロほどしか離れていない、大阪の新町演舞場で、アメリカのエジソンが特許を持っていたヴァイタスコープという機械でも、今の映画の上映と同じ形で動く映像の一般公開が行われていたんです。
動く映像を、たくさんに人たちがお金を払って観るという興業が、3ヶ月そこらという短い期間に神戸と大阪で行われていたという事実、皆さんはご存知でしたか?
覗き穴で動画を観るキネトスコープは、映画の上映という観点で言うと少し違うので、このお話はここでおしまいにしますが、12月1日の「映画の日」は、一番早かった神戸でのキネトスコープを用いて行われた興行を記念して制定されました。

さて、お互いのことを全く知らない2人の関西人が、フランスとアメリカから映写機を日本に持ち帰り、映画の興行を行ったのが、上記の通り1897年2月であるという事実。それもたった1週間というタイムラグで。この歴史上の事実は偶然ではなく、必然のように思えてなりません。
フランスからシネマトグラフを日本に持ち込んだ男の名を稲畑勝太郎(1862.12.21~1949.3.29)、アメリカからヴァイタスコープを日本に持ち込んだ男の名を荒木和一(わいち)(1872.2.3~1957.9.20)と言います。1897年2月当時、稲畑34歳、荒木25歳。
初めて日本で映画の興行をした南地演舞場跡地(現在のTOHOシネマズなんば)には、稲畑勝太郎の功績をたたえる碑文があります。
そしてその事実を基に、一般公開する前の試写としての投影、いわゆる日本で初めてスクリーンに動画を投影したのも稲畑勝太郎で、1897年1月下旬、稲畑が住んでいた京都にあった京都電灯会社の庭、とされており、その跡地にも、そのことを記念する碑が立っているんです。ここまでは、インターネットで簡単に調べられます。

この歴史上の事実と2人の人物像に注目したのが、僕を「飲み仲間」と呼び、良くしてくださっている、エッセイストの武部好伸さん。
その武部好伸さんが、上記の史実を覆す新発見を、2016年に上梓された本『大阪「映画」事始め』で発表されました。

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稲畑と荒木、2人が映写機を日本に持ち込んだのは、荒木の方が早かったこと等に着目された武部さんは、徹底的に当時のことを調べ上げ、荒木が大阪の難波にあった福岡鉄工所で行った試写が、稲畑が行った京都での試写より約1ヶ月早い1896年12月から翌1月の初旬だったことを発見されたんで
す。
もとい、このことについて武部さんは、『大阪「映画」事始め』の「あとがき」でこうおっしゃっています。
「発見したのではありません。見過ごされていた事実に気づいたというほうが正しいでしょう。それは筆者の僕が大阪人だからこそ、心の綱に引っかかったのだと思います」と。
武部さんは、この「みなさんへ」でも以前に紹介した「ウイスキーアンドシネマ」など映画に関する本もたくさん出されており、地元愛、映画愛がこの事実にたどり着いた源だともおっしゃっています。
そしてこの度、この事実をベースにした小説「フェイドアウト」を上梓されました。頂戴したその本を一気に読み終え、その感動の余韻に浸りながら、この文章を書いています。
「フェィドアウト」は、荒木和一目線で書かれた小説で、僕は、荒木の行動力やリーダーシップなどの人間性にとても惹かれました。
荒木は単身アメリカに出向き、得意の英語を駆使して、エジソンにアポなしで会いに行き、ヴァイタスコープの購入を現実のものにするのですが、その時の荒木の達成感は、自分の事のように共感できましたし、彼の下で働く丁稚さん(部下)たちに対するやさしさとリーダーシップには、とても勇気をもらいました。
荒木も稲畑も、もちろん本業は別にありました。荒木は、舶来品輸入業の荒木商店の店主、稲畑は、自ら立ち上げた稲畑染料店(現在の東証一部上場稲畑産業㈱)の創始者で、二人が行った映画の興行はそれほど長い期間ではなく、自分たちは映画興行のプロではないという理由により、1年足らずで映画興行の世界から撤退しています。
そして、撤退後の2人の関係性についても、人とのつながりがいかに大切かということを教えてくれます。短い間だったとはいえ、同じ映画興行主というライバル関係であった2人は、映画興行から撤退した後、お互いを尊重し、尊敬する間柄になっていきます。この部分は武部さんの願望だということですが、特に荒木は年上の稲畑を大変尊敬していたのは間違いないと。後に稲畑勝太郎は、大阪商工会議所第10代会頭になる人物なのですから。

小説「フェイドアウト」は、駆け抜けた荒木和一の波乱万丈な人生の集大成をまとめた評伝風小説です。読み終えて、荒木和一と共に、彼の人生を辿ることができてよかったという強い幸福感、爽快感を覚えました。本当に心が温かく、清々しくなりました。
ぜひ手に取って読んで頂きたい本です。皆さんの仕事のヒントになることがたくさんちりばめられているはずですから。

 

フェイドアウト 日本に映画を持ち込んだ男、荒木和一
東龍造 著 幻戯書房

大阪「映画」事始め
武部好伸 著 彩流社

東龍造(ひがしりゅうぞう)
1954年、大阪市生まれ。大阪大学文学部美学科卒業。元読売
新聞大阪本社記者。日本ペンクラブ会員。関西大学社会学部非常勤講師。本作が初めてのフィクションで、このペンネームを使うのは初めて。本名(武部好伸)でエッセイストとして映画、ケルト文化、洋酒、大阪をテーマに執筆活動に励んでいる。著書に「ケルト」紀行シリーズ全十巻(彩流社、1999~2008)『全部大阪の映画やねん』(平凡社、2000)、『スコットランドケルト」の誘惑 幻の民ピクト人を追って』(言視舎、2013)、『ウイスキーアンドシネマ 琥珀色の名脇役たち』(淡交社、2014)、『大阪「映画」事始め』(彩流社、2016)、『ヨーロッパ古代「ケルト」の残照』(同、2020)などがある。

みなさんへNo60 −コーヒーを丁寧に淹れる時間は前向きになれる時間−

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僕は基本的に毎日お酒を飲みます。
以前は仕事終わりに、一人で立ち飲み屋さんに寄って、30分ほど飲んで帰ることがしょっちゅうでしたが、3年ほど前から、お酒を飲むための寄り道をほとんどしなくなりました。
最近は、夜10時前後に家に帰る日が多く、コンビニで、缶ビールや缶酎ハイを買って帰り、急いでお風呂に入り、寝る時間を気にしつつ、自分の部屋で晩ごはんのおかずをつまみながら、「プシュッ」と開けて、お気に入りのグラスに注いでグビッとやっています。ウイスキーも数種類常備しているので、チビチビ…こっちはしたりしなかったり。
その時間は、僕にとっての本当に欠かせない癒しの時間であり、その時間のおかげで明日も頑張ろうと思えるんですが、最近、平日の朝の慌ただしい時間の中に、前日の夜からワクワクするような時間を追加できていることが、うれしいなぁって思っているんです。
その、前日の夜からワクワクするような時間とは、丁寧にコーヒーを淹れる時間です。

僕にとってのコーヒーとは、お酒に比べて必要性という面ではそれほど高くなく、日々の生活の中にコーヒーが登場しなくても、全く問題ありません。
朝、丁寧にコーヒーを淹れるようになった今でも、そこは変わっていないのですが、ここ数年、コーヒーについていろんなことを知る機会が増え、そうすると必然的に生活の中でコーヒーを飲む機会も増えてきて、多分いつか、僕も丁寧にコーヒーを淹れる日が来るんだろうなと内心ずっと思っていたのですが、それがこのタイミングだったんですね。

僕は、朝5時半に起きて、会社の日は6時58分には家を出ます。
その1時間半の間に、日によっては2つのお弁当を作るというメインの用事があります。
そういう朝の、ルーティン的に過ぎていく時間の中に、起きる時間を早めることなく、コーヒーを丁寧に入れる時間を加えるというのは、めっちゃ大変です。テキパキ動かなきゃ!
丁寧にコーヒーを淹れるためには、実際に淹れ始めるまでの準備がたくさんあります。
①お湯を沸かす、②豆を15g測る、③マグを準備する、④ドリッパーにペーパーフィルターをセッし、それをサーバーの上置く、⑤測ったマメを手引きのミルで粉にする、⑥沸いたお湯をドリップケトルに移し替える…ここまでがコーヒーを淹れるまでにやること。沸かす水を弱火にかけて、沸騰するまでに②から⑤をやってしまうという感じでこなします。
手挽きのミルで豆を粉にするのは少し時間がかかりますが、ハンドルを回す手に、若干の圧力を受けながら豆を粉に変えていく時間は、決して悪い時間ではありません。
そして、福岡にあるSleep coffee and roasterさんというお店の淹れ方を真似しながら、集中して丁寧にコーヒーを淹れるんです。まず、10秒お湯をドリッパーに注ぎ、20秒蒸らし、そこから2分間、計2分30秒で220㏄のコーヒーをサーバーに落とします。

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前にコーヒーをいつ飲んだのか分からないくらいコーヒーに縁がなかった僕が、3年前の4月に、中崎町の北にある「iTohen」という美味しいコーヒーが飲めるギャラリー兼本屋さんに、同じ年の6月に、天六にある「喫茶路地」という小さくて素敵な喫茶店にそれぞれ出会ったのを機に、月に1度は丁寧に入れられたコーヒーを飲むようになりました。
そして1ヶ月半ほど前に、本や本屋さんをテーマにしたインターネットラジオを通じて、Sleep coffee and roasterさんとナツメ書店さんという2つのお店が、毎朝7時に配信されている「朝のコーヒー今日の本」という動画と出会ったんです。
この2つのお店は、若いご夫婦で営まれていて、(Sleep coffeeをご主人が、ナツメ書店を奥さんが同じ建物で営んでおられる)お二人の作る動画を拝見したら、これがまたとっても暖かくて優しくて素敵な動画で、僕は、たちまちお二人のファンになってしまい、単純に一緒にコーヒーを淹れたいと思ったのが、毎朝コーヒーを淹れるようになったきっかけです。
過去のアーカイブも全て観た僕は、コーヒー担当のご主人から、コーヒーにまつわるたくさんのことを、本担当の奥さんからは、大きな本屋さんでは出会うことが難しいかもしれない、小さな出版社の本を中心に、たくさんの素敵な本について、それぞれ教えて頂きました。
そして僕は、余りにもコーヒーに関することを知らな過ぎて、喫茶路地のマスターやSleep coffeeさんをがっかりさせるようなことを何度も言ったり、質問したりしていたことに気付きました。無知って怖いなぁ、申し訳なかったなぁ、って今、思ってるんです。
それは、僕がミルを持っていないせいで、粉にした豆を買う必要があったことに起因します。
焙煎した豆を挽いて粉にしてしまうと、豆より何十倍も空気に触れる面が増えるため、粉はあっという間に酸化して、鮮度が落ちてしまうんですが、コーヒーの味について全くこだわりがなかった僕は、豆でも粉でも、大した違いはない、と思っていたんです。
僕は、飲んでくれる人のために、心を込めて焙煎された豆を、焙煎したご本人に向かって「粉にしてもらえますか?」とずっと言ってきました。
でも、コーヒーの知識が増えるにしたがって、粉で保存することは、せっかくのコーヒーを不味くすることだと身に染みてわかりました。味も風味も急速に落としてしまうんです。
僕が豆を売る側だったら、ミルを持っていないけど、コーヒーをドリップして飲みたいというお客さんがいることを理解していたとしても、やはりちょっと悲しくなると思うんです。
手塩にかけて育てた娘を、大切にしてくれないと分かっているところにお嫁に出す心境?(ちょっと大げさだけど(笑))そんな気持ちになってしまうように思います。
だから、僕は急いでミルを買いました。そしてそれは大正解でした。豆を大切に扱うことができるようになったことはもちろん、ドリップする直前に豆を挽くことで、産地の違うコーヒーの味の違いが分かるようになってきたんですから。そして、ゆっくりできる秋の休日には、この本を本棚から引っ張り出し、読みながらコーヒーを飲みたいと思います。
集中して丁寧にコーヒーを淹れる時間は、僕にとって日々を前向きに過ごすための大切な時間のひとつになりました。みなさんは、そういう時間、持ってますか?作ってますか?

カラーひよことコーヒー豆
小川洋子:著 小学館

Sleep coffee & roaster ナツメ書店

https://natumesleep.com

 iTohen

http://itohen.info

喫茶路地

https://kitusaroji.com