みなさんへ No.40 −障害って何だと思いますか?−

 

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齋藤陽道(はるみち)さんという写真家を知ったのは、今年の2月のことです。当時開催されていた、齋藤陽道さんの写真展「感動、」について、また、著書である、今回ご紹介する「異なり記念日」について書かれた文章を偶然目にして、齋藤陽道さんという方はどんな方だろうと興味を持ったのが、今年の2月、まだ寒い冬のことでした。
その文章の中に「筆談」という言葉が出てきていたので、齋藤陽道さんは、耳が不自由なんだとわかりました。

僕はよく考えます。障害者という言葉の中にある障害とは何か?と。
健常者という言葉の対義語が障害者という言葉ですよね。
僕は障害者という言葉が、あんまり好きではありません。障害者という言葉は、一般的に障害と言われるものを抱えていない人が、上から目線で決めた言葉のように感じるからです。
僕は、「上から目線」という言葉が嫌いです。
ですから、健常者という言葉も好きではありません。だから今、健常者と言われる人のことを、回りくどい言い方で表現しました。
「健常者」という言葉の意味を調べると「特定の慢性疾患を抱えておらず、日常生活行動にも支障のない人のこと」とありました。それを読んで、僕は何かおかしくないか?と思いました。日常生活行動にも支障のない人?健常者と呼ばれる人が今の世の中を作ったんやから当たり前やん!と。
特定の慢性疾患を抱え、日常生活行動に支障のある人を、障害者と呼ぶのでしょうか?

以前、東京工業大学准教授の伊藤亜紗さんが書かれた「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本を読んだことがあります。その本には、目の不自由な人のものの捉え方や、考え方がとても分かりやすく書いてあり、この本を読むことで、50年以上生きてきてようやくわかったことありました。
それは、こういうことです。
——人をイスで例えるなら、僕は4本足のイスで、目の見えない人は3本足のイスで、どちらもイスとしてきちんと成立している。——
僕は今更ながら、そういうことか…と理解しました。
一般論でいう障害というものを抱えている人に対して、本当に申し訳なく、恥ずかしい気持ちになったのですが、僕はずっとこの例で言うならば、目の不自由な人は、4本足のイスの足1本が極端に短くて、よほど注意深く座らなければイスごと転んでしまうようなイスだと思っていました。
しかしそうではなかったんです。目が不自由なだけで、ちゃんと成立しているんです。
僕はこの気付きから、目の見えない人だけではなく、耳が不自由な人も同じだろうと理解しました。耳が不自由でも、うまく言葉がしゃべれなくても、耳の不自由な方はちゃんとその状態で成立しているんです。

齋藤陽道さんは、生まれたときから耳がほとんど聞こえませんでした。
でも、ご両親はちゃんと耳が聞こえる方だったので、齋藤さんの耳が聞こえないとわかった彼が2歳の時から、厳しく言葉の発音の練習をさせたそうです。
齋藤さんは中学まで一般の小中学校に通い、高校から聾学校に通います。そして高校で初めて手話と出会いました。高校までは手話は使わず補聴器を付け、ほんのわずかに聞こえる音と相手の口の動きを頼りに、声による言葉で会話をする生活を続けてこられました。
齋藤さんは手話を覚えて、自分を卑下していた自分に気付きます。そして二十歳の時に補聴器付けずに生きていこうと決心されます。
その時の気持ちを齋藤さんは、こうおっしゃっています。
「補聴器を使って音を聞こうとする限り、自分じゃない自分のままでいるような気がした」
と。
その後齋藤さんは結婚され、同じく聾者である奥さんのまなみさんとの間に樹ちゃんという男の子が生まれます。樹ちゃんは耳がちゃんと聞こえる男の子でした。今4歳です。
僕は、齋藤陽道さんの本や写真集を拝見して、齋藤さんの限りない純粋さに感動しました。
その純粋さとは、少年のような純粋さではなく、様々な辛さやくやしさを乗り越えた上でたどり着いた純粋さなのです。
そんな齋藤さんのpureな文章や写真は、雑誌「暮しの手帖」での家族との日々を描いた連載「よっちぼっち」でも触れることができます。

そして僕にも、耳の不自由な仕事仲間がいす。
彼はとてもチャーミングで、オシャレのセンスが抜群です。お酒が好きという共通点があり、僕とは気が合うと思っているのですが、まだ2人で飲みに行ったことはありません。
そういう機会を持ちたいと思ってはいるのですが、なかなかできずにいます。
僕が無知であるために、僕の発言で彼を傷つけてしまったりしないかと、ちょっと臆病になっていることも「飲みに行こう」と声をかけられない原因のひとつです。

間違っているかもしれません。乱暴な表現かもしれません。
僕は、目や耳や手足が不自由で、障害者と言われる人たちの「障害」というものは、人それぞれが持っている「個性」と同じ意味だと思いたいです。
肌の色や目の色、髪の毛の色が人それぞれ違うように、食べ物の嗜好が違うように、見え方や聞こえ方、発音の仕方や体の動きが違うことも、その人の個性のようなものだと思いたい。
なくとも僕は、日本語がよく分からない外国の人に接するのと同じように、耳の不自由な仕事仲間と接したいです。

異なり記念日 齋藤陽道:著 医学書
それでも それでも それでも 齋藤陽道:著 ナナロク社